tanojinの日記

昔は毎日書いていました。今後は不定期更新です。アフィリエイトをするつもりはありません。

タイトルは中身を表す

卒業論文を書いていた時、ゼミの先生からタイトルの重要性を説かれた。「名は体を表す」ではないが、その論文の内容が一目で分かるタイトルを付けることが出来たらよい論文が出来上がっているとか、そんな感じのことを言われた。提出した論文はしっかり書ききれた…とは言い難いが、タイトルはそれなりのものを付けれたと思っている。

 

おそらく、ブログもタイトルが大切なのだろう。興味がわくようなタイトルにしておけばアクセス数も伸びるし、中身もなんとなく読み取ってくれる。それを逆手に取ったような記事が書けたらどんなに誇らしい事だろうか。

自分自身、毎日ブログを更新する時もタイトルはそれなりには気にしている。最初こそ「○○の話」で統一しようと思っていたが、すぐに飽きてしまった。ちなみに、これは敬愛する鷺沢萠氏の著書「私の話」を参考にしている。

 

(※ここから「やがて君になる」及び「私の少年」の最新刊について少しだけネタバレを書きます。まだ読んでいない人は今すぐ読んでください)

 

注意書きを挟んだところで、「やがて君になる」と「私の少年」のタイトルについて語りたい。どちらも最新刊での話だ。

やがて君になるは6巻に収録された34話の「零れる」。

私の少年は5巻に収録された23話の「蓋」。

どちらも登場人物たちの思いを表したタイトルとしてこれ以上ないものである。また、やが君6巻のおまけカットでは水がこぼれているコップが描かれてあり、私の少年はペットボトルのふたを拾う場面から始まる。タイトル自体は比喩として用いる言葉だが、あえて道具を使うことでより印象に残るようになっている。

何より、どちらの話も物語全体の一つの区切りとなる場面である。相手に対して思いを伝える…偶然にもコミック版刊行のタイミングがほぼ同じ時期に重なり、タイトルもどちらも水に関係するものとなり、そして結果も… 蓋をしていた思いが零れてしまう、零れだしそうな思いに蓋をする。正反対ではあるが、ほとんど同じ。

どちらも続きが楽しみ過ぎて、「これだけのために生きていける」という気持ちにまでなってしまう。どちらも最終話を迎えるまでは絶対に死ねない。最近Twitterで「三島由紀夫は自決する前に、あしたのジョーの最終回を知りたがっていた」という話を聞いたが、まさにこんな感じだ。

良い作品が多すぎる。