tanojinの日記

昔は毎日書いていました。今後は不定期更新です。アフィリエイトをするつもりはありません。

あるいはただの無関心

NHKドラマ「フェイクニュース」の後編を見た。前編の感想とは違って、ある場面のことだけを書くことにする。

というか、それしか書ける気がしない。

 

うるう秒」を覚えているだろうか? 時間のズレを調整する為だけに追加された1秒のことだ。下の写真はその時のものである。

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東京新聞:うるう秒 3年ぶりの挿入 今日は1秒長い:写真広場(TOKYO Web)

自分が見たのはこの写真ではないが、多くの人がスマホを手に撮影している点が同じだ。さすがに違和感があった。よく見ると高齢の方はスマホもカメラも手にしていないが、そんな奇特な方はごく僅かにしかいない。

おそらく、自分だってこの場にいればスマホを片手に写真を撮り、後でTwitterにアップしていただろう。うるう秒ではなくて、例えば先日の広島ファッションウィークでのんさんを見た時も、写真撮影が許可されていれば間違いなく撮っていた。この話だと、運動会で我が子の動画を撮るのだけに必死な親たちにも繋げてもよいかもしれない。 

 

さて、では何か事件が起きている現場にいたとしたら、自分はスマホをしまうことが出来るだろうか?

フェイクニュース(後編)」の終盤、主人公の東雲(北川景子)と「青虫混入事件」の当事者である猿滑(光石研)はある広場に集まる。そこでは県知事候補たちの最後の演説が行われていた。外国人労働者の不正に関する疑惑が現職の知事にはあり、それを否定していると群衆から「イーストポスト(主人公の勤めるネットメディア)の記事を読んだのか」という声が上がった。この声を受けて、他の群衆たちもスマホを開き「事実」を知っていく様は、まるで「アラブの春」を思い出させる。「アラブの春」自体の結果はどうあれ、ネットの力が知れ渡った事例であることに間違いはないだろう。

「事実」を知っていく群衆たちを見て主人公は手ごたえを感じるが、現職知事の応援団に見つかり騒ぎが起こる。それを止めるべく動いたのが、全騒動の発起人とも言える猿滑だった。彼がしたことはネットでも何でもない、ただの演説だ。ものすごいアナログな方法だが、彼の行動で人々は落ち着きを取り戻した。

この場面は「ウォール街を占拠せよ」を思い出させた。騒動が大きくなる/小さくなるの違いはあれど、ネット社会にあるからこそ一人の訴えがみんなを変えていく力になるということを思い出させてくれる。「ウォール街を占拠せよ」には賛否あるだろうが、自分自身はあの映像から力を感じられた。

 

ここまでなら、かつて理想にあった「ネットが世界を変える」様子を見られたかもしれない。

 

猿滑の演説で騒動が収まったように見えた瞬間、部外者たちが現れる。外国人労働者の受け入れについてのデモ隊である。勘違いから難民の受け入れの話にまでネット上で発展し、他県からわざわざ難民の受け入れについて主張をするためだけにやってきた人々だ。賛成派も反対派も一堂に集まったため衝突が起き、それは暴動にまで発展した。その場を収めようと県知事候補も声を上げるが、かえってデモ隊たちを煽る結果となってしまい、火災が発生し怪我人まで出てしまった。

この暴動をドラマでは2つの視点から見ている。1つは主人公たち現場にいる現場の視点。主人公たちは怪我人たちを助けようとするが、大多数は暴動の様子をスマホで撮影しているだけ。火災が発生すると、怪我人たちを踏みつけて逃げていく。

もう1つは現場をネットを通して見る人達である。ドラマでは猿滑の家族が担当をした。「日本で戦争をしている」「外国でしょ?もうネットはこりごり」という会話を母子で行う。これは現代を表現する言葉として最適だと思うのだが、どうだろう。

撮影に集中する人/その配信を受け取る人という構図は、例えば「シン・ゴジラ」や「コードギアス」の序盤でも見られた。シンゴジはともかく、ギアス放映からはもう10年以上経っているのに、全く同じ表現がされてしまうのは残念なことだ。

とはいえ、動画を撮影してくれたおかげで現場の詳細な状況が後世に残るということも確かだ。近年、事故や災害を報道する時には必ずと言ってもいいほど「視聴者提供」のものが使われる。(そういえば、YouTubeのアイディアはスマトラ沖大地震の様子を一般市民が撮影していたことから生まれている)この映像をもとに事故・災害の対策が取られることだったあるはずだ。撮影者達にそんな意識があるのかは分からないが。

 

フェイクニュース」などの作品に登場する撮影者たち、最初に挙げたうるう秒を撮影しようとする人たちには何かの信念があるのかもしれない。それは「使命感」や「正義」といった言葉に置き換えられるような、そんな感じのものだ。

彼らは一体、何を見ているのだろうか? 

まあ、フィクションの話と現実の話(それも至極平和なニュース)を比較するなって言われそうだが、目の前で起こっていることをカメラを通して見ようとしていることには変わらない。それに、もし現実に何か事件が起こった時大多数の傍観者はスマホを片手に撮影しているだろうなとも思っている。先日の渋谷ハロウィンで軽トラが倒された映像でもそうだ。撮影してくれていたおかげで今後同じようなことは起きそうにないが…まあいいや。

結局、撮影者たちは目の前の事には無関心なんじゃないかなと思う。興味があるのはカメラを通してその事象を保存し、誰かと共有すること。だから現実の他人には鈍感でいられる。

もしかしたら、「目の前で困っている人がいれば助けてあげる」といった模範的な人間は数少なく、多くの人はそれを傍観してるだけなのかもしれない。傍観する時カメラを通すようになっただけで。

 

最後に、ドラマ「フェイクニュース」についてもう少しだけ書く。

やや過剰に演出されることもあったが、ネットの良い所/悪い所が凝縮された良いドラマだったと思う。ネットの話に限らず、外国人労働者の問題や政治家のスケープゴートの話まで書くことで、様々なことを考えさせられた。

願わくは、将来こんな未来になりませんように。